福岡の中学2年生自殺から

世情に疎い人でもさすがに知らない人はいないであろうこの事件。

いじめ自殺って程度ではここまでにはならず、原因が教師にあった、

というのがその理由だろうが。

この子に関しても思ったのは、「親が心配するから」という言葉も自殺の

大きな理由の一つ。結局この子も「居場所」がなかったのだろう。

僕の言う「居場所」についての意味は最近の登校拒否問題のところで書いてある。

で、大分前に差別問題を取り上げたことをふと思い出した。

こちら

気が向いたのでこの続きを書いてみる。

なお、区別と差別の違い、など細かい話は抜きでその根本の話。



元々、差別というのは自然に対する恐怖心から生まれている。

人間がどうあがいても制御することができない自然に対し、

差別化をはかり人間とは違うものだという認識を求めた。

世界各地で蛇等の動物を神と崇拝し、象徴とするのもその一例の一つ。

欧米の食事マナーも、元は動物との差別化です。

「音を立てて物を食べるな」

「手で物を食べるな」

彼らが鼻をかむ時は人前をはばからずに音を立ててかむ。

なぜなら動物は鼻をかまないからだ。

水車小屋の番人、屠殺業、性風俗などの職業がなぜ身分が低いのか。

自然を怖れていた人々は、それと密接にかかわる職業の人を遠ざけた。

現在でこそ人は皆平等というのが先進国の倫理観となっているが、

肌の色が違うというのは差別化をはかるには十分の理由。


「自然の摂理に逆らうのは〜〜」という言葉がさも倫理観のように働いているのは、

自然を怖れ、それに差別化をはかったという人類の歴史が人々に植え付けられて

いるからだ。勘違いされると困るのは、否定してるわけではない。

その差別化が様々な文化などを生み出しているのも事実。

またそれをしなければ人間の歴史は語れず、生き方も変わってしまう。


何が言いたいかというと、人間は差別をしなければ生きられない生き物なのだ。

皆がルールとして守っているものの根本理由についてよく考えてみれば、

「なぜなんだろう」という疑問をもつものは少なくないはず。

考えたくない人は考えなくていい。

人間が踏み込んではいけない領域、「タブー」とする人は少なくない。

生き方、を必要とする上で、自分が守るべき領域をあらためて

考えたくなった人はご参考あれ。