いじめとは
前回はおもいっきり話を逸脱して書いてみた。
本来この事件に際して注目されるべき点は教師の「教育者としての資質」
についてであって、過去に話題となったいじめ問題との違いはそこだ。
おそらくこの教師は生徒に対する憎しみなどなかったのだろう。
ただ場を盛り上げるための手段の一つとして行った行為の一つなのだろうが、
太った女生徒を豚呼ばわりするなど、いかにその子が気丈にふるまっていようが、
思春期の生徒にどのような精神的影響を与えるかを考慮せねばならない。
教育者としての資質を問われると共に、教育者を育成する場についても
考えねばならないが話が長くなりそうだからやっぱやめた。
忘れてはいけないのは、前回も書いたが最後までその子が救いを大人に
対して求められなかったのも大きな理由の一つ。
教師の責任追及も大事だが、親ならば「なぜ相談してくれなかったのか」も
考えなくてはならないだろう。「良い子」というのは実に厄介だ。
前回、差別化(崇拝を含む)の重要性について書いたが、
それでいじめが容認されるかと思ったら大きな間違いだ。
「理性」が存在する人間だからこそ、弱者を守る倫理観を持て、
そのための法・技を生み出せる。武術などいい例だ。
人種差別や部落差別、職場のいじめに至るまで弱者排除を唱えたければ
唱えればいい。だが、人間が人間同士の共存を考えた上で生み出された
確実な「進化」とも言うべき倫理観。
それを持ち得ぬ者に「人」として生きる資格は無い。
また、これはもう立派な犯罪である。
いくら小学生とはいえ集団で精神的・肉体的圧力を一人に対して加える
など、その行為の罪の重さを知らなければならない。
いじめがあっても加害者に対しての刑がほぼないのが現状だが、
警察の介入を認めて然るべきであろう。刑事事件とも言っていい。
繰り返し言うが、共存意識を忘れ、強権、力をふりかざし、集団で弱者に対しての
排除意識を持ちうるような輩はもはや「人」ではないのだ。
今日は愚痴日記でした・。・