ゆとり教育
ゆとり教育が見直されることになりました。
実に短い期間で、世間での評判はお世辞にもいいとは言えません。
で、私がゆとり教育に対してどう思っているかというと、「 賛成 」です。
意外と思われる方もいるかもしれません。
正確に言うと、現行のゆとり教育には反対で、別の方向に向けるべきということです。
元々、ゆとり教育にはどういう意味があったのか。
受験戦争が過熱し、子供は幼い頃から塾へ。
それでもついていけない子供が悩み、反社会的な行動を取ったり、己の道を見つけられな
かったり、様様な問題が起きてくる。
この場合の受験戦争というのは、
国語、算数(数学)、理科、社会、(英語)の4〜5科目で行われます。
最初からこの5科目で全員が等しく競争のスタートラインに立たされることが決められ、
そこで失敗した人間が脱落していく。
これではいけないと待ったをかけたのがゆとり教育です。
勘違いしてはいけません。
本来、ゆとり教育というのは「学ばなくていい」とするものではありません。
「学ぶ方向性を多様化させる」というものなんです。
それを何を勘違いしたか、ただ単純に学ばせる知識量を減らし、悪い意味でのゆとりを
もたせるという方向に進みだし、堕落化させています。
川に連れていくのはただ泳ぎや鬼ごっこで遊ばせるためか?
違います。その遊びの中で水や魚や植物などと直に触れ合いを持たせ、
それに対して考えさせることにより、それぞれの主観的意識を広げさせる。
ゆとり教育に反対されている方。
幼い頃から計算能力を高めるのはそこまで大事なことなんですか?
アメリカでは小学4年生の子でもまだ満足に4+5の答えがわからず、
大学に入る学生のほとんどは満足に因数分解ができません。但し大学での単位取得
には日本よりも数倍苦労し、卒業する頃にはその差のついた学力も補われます。
「嫌なことを苦労して学ばせる」というのが学問ではありません。本来は、好奇心を
もって自主的に知識の探求に興味を持ち、学ばせるのが理想的な学問というもの。
「今の時代はゲームなど誘惑が多すぎる」というのも嘘。そんな存在を知らない江戸時代
の子にとっては鬼ごっこやかくれんぼが誘惑になりえますが、寺子屋の外では学問に
興味を持つ貧しい子がよく覗いていたそうです。退屈な授業しかできない、怠慢な教育者が
「学問とはつまらなく苦労するものだ」という誤った意識を植え付かせていってしまっています。
民主主義の意義を考えた上でも、競争意識をもたせるというのは大事なことです。
しかし、この限られた数科目で全員が同じラインに立つ必要はないのです。
受験戦争で培われた知識を活用して職業に就かれている人が一体どれほどいるでしょうか。
教科など方向を多様化し、またそれを学ぶ楽しさを教え、子供に進む道を選ばせる 苦労をさせ、それぞれに合った分野の中で競争意識をもたせる。
本来、ゆとり教育とはそういったものなのです。
しかしまーなんだ。ボクは受験時代は自分で言うのもなんが数学などは多少はできた方
であり、説明が分かりやすいと評判を皆からもらっていた方でしたが、学ぶ楽しさを子供に
教えられるかと言えば「否」でしょうな。(´ω`)
その学問について教育者側がもっと本質的に理解し、教える方法というものについても
もっと大人が議論していく必要があると思います。
久々の長文だ。分ければよかっただろうか。